韓国の歴史は、幻覚と妄想
予め言っておくが、私は天皇崇拝でも右翼でも左翼でも、反韓でもない。
さて、「大朝鮮帝国史」という本がある。韓国史として韓国人が教えられている。韓国起源説は知っていると思うが、この中に「大朝鮮帝国史」を根拠にしているのがたくさんある。
「大朝鮮帝国史」は韓国の漫画である。1994年に3巻セットが韓国で出版され、1995年に第4巻と第5巻が出版された。日本じゃ、まず売れないから、知らないと思う。まあ、漫画だから何を書いても作者の自由なんだが(でも盗作はだめだよ)。
この漫画は、1994年韓国漫画大賞出版賞受賞というのを受賞した。この賞を受賞したのだから正しい歴史だというのが、インチキ歴史の根拠となっている。また、これが韓国の言う歴史の正しい認識である。
ちょっと話が逸れるが、「正しい歴史的事実」と「正しい歴史の認識」とは全く違う。「認識」とは理解することであるから、主観が入ってくる。「正しい歴史を認識せよ」というのは、「俺の思ってる通りに理解せよ」ということで、それは、事実ではない。
*は「大朝鮮帝国史」に書かれている内容。赤字は一般に歴史として認められていること。青字は説明または私の意見である。
(第1巻)
* 我が民族が住む全世界を朝鮮(チュシン)という。
★全世界が朝鮮とは、はじめて聞いたわ。
民族の発足
* 我が民族はパミール高原に源を発して、バイカル湖を経て不咸山(白頭山)に移動定着した。 不咸山に到着した我々の先祖はそこを中心に文化を発達させ、紀元前6000年頃には紅山文明を、続いて黄河文明を起こした。
★パミールは高原ではなく山岳地帯で、人はまず住めない。
★バイカル湖周辺は1年の半分は凍結してて農業には不適。この通りならほぼ全員餓死する。
★タクラマカン砂漠やゴビ砂漠を越えることになるので無理。当時、正確な地図もないだろうし。
★紅山文化はモンゴル付近に紀元前4700~2900年頃起こった文明、黄河文明で畑作は紀元前7000年頃で、年代が前後している。
中国の制圧
* 我々の先祖は紀元前3898年に倍達国を建て、農耕民族である中国人を制圧し、大帝国を建設した。
★倍達とは朝鮮の美称、自分たちは優秀という意味がある。
★倍達国が出てくる書物は偽書とされる。
★農耕民族である中国人とは、自分たちが興した「黄河文明」ではないのか?
* 倍達国は18代1565年間で終わり、その後に続いて檀君朝鮮が建てられた。紀元前2333年。
★18代1565年は1代が86.9年である。紀元前の人間の寿命は30歳ぐらい。引継ぎを考えると寿命が100歳を越えないと無理。
檀君朝鮮帝国を形成
* 檀君朝鮮は阿斯達(アサダル)を都として帝国を形成、辰朝鮮を中心に馬朝鮮と卞朝鮮の三檀君が広大な地域を分割して治めていた。紀元前2333年~1112年。
★檀君は紀元前1333年に即位したとされる伝説上の古朝鮮の王。檀君朝鮮は各国の文献と照らし合わせて、存在しなかったとされている。
諸国の形成
* 箕子朝鮮や衛満朝鮮は朝鮮帝国の地方諸侯国だった。 したがって、漢武帝の衛満朝鮮征伐は中華族と地方政権との闘争であり、中国の史書が固執しているいわゆる漢四郡は、漢武帝退治に功労が大きかった将軍たちに分封した領地だった。
★箕子朝鮮は中国が作った国家。衛満朝鮮も同様。朝鮮帝国は歴史資料に出てこない。因みに史書は中国が監修して正しい歴史として国際的に認められている。漢四郡は衛満朝鮮を滅ぼした4人の国王の国。
扶餘国健国
* 檀君朝鮮が脆弱になると、解慕漱の扶餘国と東明王の高句麗を共に継承した高豆莫が諸国を合わせて卒本扶餘国を起こした。紀元前1112年。
★解慕漱は神話の人物。扶餘は中国東北部にあった異民族の国
新羅の建国
* 扶餘国が興ると朝鮮帝国の権威は落ち、地方勢力が成長した。
*紀元前3世紀頃には黄河上流付近の東胡(モンゴルの東に住む部族)の一分が匈奴(モンゴル)に押されて南下、紀元前57年にソウルに定着して新羅を建てた。その以後、馬韓,百済と争い、小白山脈を越えて徐羅伐に移る。
★衛満が箕子朝鮮を滅ぼした際に、箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃げ、馬韓を攻め落として韓王となり馬韓を支配した。
北満州一帯の統一
* 紀元前37年には卒本扶餘国で育った高朱蒙が扶餘国を脱出、卒本地方に至って高句麗を建て北満州一帯を統一した。この時、建国の功臣 陜父が日本に逃げ、日本最初の国、多婆羅国を建てた。
★高朱蒙については様々な説があり、崇神天皇の他、神武天皇、卑弥呼の親というのもある。
★崇神天皇61年のこと、但し崇神天皇も伝説の人物と言われている
沸流百済の健国
* 百済は、高句麗の建国過程で背信感を感じていた皇妃 召西奴とその息子 沸流,温祚が高句麗を脱出、沸流湖地域で沸流百済を興す。以後、百済は遼西地域に移ったあと(外百済)、再び忠清南道の牙山地域(目支国)に移った。この時期に温祚が独立、十済(漢城百済)を建てたのだが、百済の弟国である。
* 牙山に定着した沸流百済は、遼西,山東,日本地域を含んだ広大な海上帝国を建て、各地を植民地とした。
★歴史上日本が韓国の植民地になった歴史的な事実はない
6伽耶連盟の成立
* 高句麗の統一によって中央政権から追い出された昔の朝鮮の重臣たちは、新しい根拠地を探して朝鮮半島南部へ押し寄せ、彼らによって6伽耶連盟が成立した。
★伽耶とは一時釜山近郊にあった小国群
(第2巻)
任那の設立
* 伽耶が新領地を開拓する過程で、日本進出の足場として設置したのが任那である。 任那は韓国語では我慢して耐えるという意味で、日本の立場で解釈すれば、主君がいる国という意味である。
★そんな意味とは知らなんだ。
★仁那の成立は諸説ある。中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在する。仁那日本府と言い日本の出先機関があったらしい。但し、仁那は邪馬台国の一部であったという説もある。
各国の日本進出
* 伽耶の日本進出以後、日本列島に対する関心が高まり、百済,高句麗,新羅が争って日本に進出した。伽耶系統であるカラ,アラ、新羅系統であるムラ,百済系統であるコム(熊),タムロ(担魯)などに関連がある地名は、皆この時期に開拓された所である。
天皇統治国家の設立
* 沸流百済の日本統治過程で、百済皇統継承のために全ての担魯を制圧して建てたのが天皇国家である。
★沸流百済は沸流伝説と呼ばれるもの。天皇国家はそれ以前からあった。百済が日本を制圧して作ったものではない。
*この時の討伐将軍であるキョン・ジンジュは百済の将軍であった。天皇ソン・ソンジョも百済から派遣された百済皇族だった。
★ソンジョという天皇は存在しない。百済から派遣された百済皇族も存在しない。
神武天皇の東部制圧
* 神武天皇は、現地妻を取っていたソン・ソンジョ皇子の代わりに百済から送られた新しい天皇で、日本列島の東部征伐の任務を忠実に遂行した。
★神武天皇は初代の天皇で、実在せず、神格化されている。ここに出てくるのがおかしい。「日本書紀」や「古事記」に記載があるのみ。
日本列島での戦争
* 新羅王子 天日槍の日本列島攻略以後、本州地方をめぐる百済,新羅の間の争いが激化した。高句麗もコンボル(?)を本拠地として勢力争いに参加、日本列島は戦火に包まれた。これを解決するために百済は景行王を派遣した。
★日本国内で朝鮮が戦った歴史的事実はない
三国遺事
* 三国遺事の延烏郎・細烏女の話は、新羅に滅ぼされた馬韓遺民の日本列島移住の話である。この細烏女が卑弥呼であり、その娘が神功皇后である。248年
★卑弥呼は未婚で子はいなかった。神功皇后の母は葛城高顙媛である。
沸流百済の日本への逃亡
* 海上帝国を成していた沸流百済は、高句麗の広開土大王の侵攻によって本国の熊津(コムナル)を奪われて日本へ避難し、応神天皇となった。
奈良百済
*応神天皇は奈良百済を建て、そこを中心に本国の古莫那羅(コムナル)百済を支配した。710年。
★藤原京から奈良遷都は元明天皇によって行われた。奈良百済という語句は大朝鮮帝国史にしか出てこない。
(第3巻)
日本改革と大化の改新
* 古莫那羅百済の混乱に乗じて、新羅は日本列島における勢力挽回を試みた。 この時、新羅の主導でなされた日本の改革がいわゆる大化の改新である。645年。
★大化の改新は中臣家と蘇我家の権力争いである。「大化」は日本最初の元号で、この改革により、「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まった
本国百済の滅亡
* 扶餘の遷都後、内政を整備した百済が新羅を圧迫すると、新羅は高句麗の中原統一のための全民族的協力の提議を退け、660年、唐と協力して百済を滅亡させた。
★唐と新羅の貿易を高句麗と百済が邪魔するため、結局唐は高句麗出兵を実施する。その作戦の過程で百済は滅びた
本国百済の復興の失敗
* 本国百済の滅亡を見た奈良百済は、全国力を動員して本国の復興を試みたが、派遣軍と本国の紅旗軍との不和で失敗した。
★奈良百済というのは、存在しない。
★事実無根。この頃は遣隋使・遣唐使などで大陸文化を取り入れていた
★なぜ、たびたび、日本を統治していたというのか、意図は不明。
唐の高句麗出兵
* 百済滅亡後、唐は中国人の宿願である高句麗征伐のために数度にわたって高句麗へ侵入したが、事あるごとに高句麗の強力な力に阻まれ、凄絶な失敗を味わった。
★唐の3度の高句麗出兵により、668年に高句麗は滅んだ。別に中国人の宿願ではない
高句麗の滅亡
* 668年高句麗は淵蓋蘇文の死亡後、その息子たちの間で権力争いが起き、権力の座から追い出された男生が唐の軍隊を呼び入れることで、あっけなく自滅してしまった。
* 朝鮮(チュシン)の伝統を継承していた高句麗は、この時に我が民族関連の記録を民族保護次元で全て焼却したのだが、このためにその後の国史が歪曲された。
★都合の悪い資料は全て焼却したということ。証拠隠滅である。以後、政権が変わるたびに証拠隠滅が行われた。
★このため、中国と日本の資料で朝鮮半島の研究が行われることになった。
渤海の建国
*高句麗の自滅後、その遺将である大祚栄,李尽忠などが協力、唐に対抗しながら民族復興を掲げて、勃海を建国した。 勃海はその領土と建国の精神において、高句麗継承の精神を明確にしていた。698年。
★渤海は現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて存在した国、領土と建国の精神で高句麗を継承していない
(第4巻)
北方帝国の興亡盛衰 大氏高句麗の立国
* 西暦699年、渤海の大仲象皇帝に続いて皇位に昇った息子 大祚栄は、この年に天統と年号を改め、国名を大震国とした。
* 昔の高句麗を導いていた高氏たちが新政府に参加することで、大氏高句麗(渤海)は安定を取り戻すようになったが、北国の黒水部との交渉は失敗した。扶餘国(高句麗)に対する恨みが、黒水部が新政府に参加することを拒否した理由だった。
★黒水部は元々唐の一部だから拒否当たり前である。高句麗に恨みがあったからではない 。
民族統一の達成
* 大祚栄は組閣を行い、母方の叔父の大武芸を送って唐と相互承認協定を結び、大武芸を駐唐初代大使として派遣した。
* 西暦719年、大祚栄の後を継いで大武芸が皇位に昇った。皇位を狙っていた大門芸は陰謀を企み、失敗すると唐へ逃げた。この陰謀に関わった黒水部の可汗イェソクリギを処刑し、民族統一を達成した。
★大門芸は国水部への派兵に反対して亡命した
★朝鮮は単一民族ではないので、民族統一と言われても......。
大唐懲罰戦争
* 唐懲罰戦を繰り広げるのに先立って、大武芸は唐の同盟国 新羅を牽制するためにコ・イニなどを日本に派遣、同盟を結んだ。張文休を連合軍総司令官に任命して唐朝に圧力をかけていたが、新羅の利敵行為によって軍を撤退せざるを得なかった。しかしこの時、張文休は山東地区の高句麗遺民たちで登州軍を組織し、山東を中心にした占領地区を守らせた。利敵行為を起こした新羅軍は壊滅した。
★727年四面楚歌となった渤海は日本との友好のため来日、平城京に到達歓迎を受けた記述がある。以後、来日は数回行われたが、日本では朝廷への貢物と捉え、歓迎していたようである
世宗広城 文皇帝
* 西暦737年、大欽茂が第4代の帝位に昇った。大欽茂は学問に励み、文化的に大きな発展を成した。一方では、契丹の安禄山をけしかけて唐滅亡を試みたが、大燕国(756年安禄山は洛陽を占領して大燕国を建てた後、自ら王位に昇った)の内紛で、結局作戦は失敗した。
東夷の故地 山東半島
* 山東半島は東夷と華山の戦略的要衝地である。大欽茂は李正己を遼陽皇に任じて、登州に大高句麗の代表部を設置した。李正己は山東半島を統一し、唐の東方貿易を独占した。大高句麗は交易が増えたため、国が発展することとなった。一方、唐は李正己に頼らなければならない状態となった。(この時期、大高句麗と日本との貿易も非常に活発だった。日本の急激な文化発展はまさにこの時になされた)
★日本の発展は遣唐使によるところが大きい。朝鮮半島を経由した文化ではない
斉国の滅亡
* 斉国(李正己の息子 李納が高句麗の王位に昇ると同時に国名を斉国に改名)の第4代 李師道は、全国総動員令を下し、唐の東道攻略に乗り出した。しかし、これも新羅の利敵行為と李師道が殺されることで失敗に終わり、斉国は結局滅びてしまった。せっかく取り戻した卞朝鮮の青丘の地(山東地区)は、再び華山族に渡ってしまった。
東京遷都と大元義の乱
* それでは自国の滅亡を見守っていなければならなかった大高句麗の内部事情はどんなだっただろうか?既に老齢に入った大欽茂皇帝は、唐の討滅に最も大きな障害物である新羅を除去するために、南の国境の東京城に遷都し、南征軍を組織して大元義を司令官に任命した。しかし、大欽茂皇帝が死亡すると、大元義と皇子たちの間で再び皇位争奪戦が起こって、自国をおろそかにした。結局、皇権は末子の皇子である大嵩璘に戻った。
★どうも、唐を朝鮮半島ぐらいの大きさと思ってる節が見られる。朝鮮では勝負にならない
卞朝鮮の後裔たち
* 西暦872年、扶餘族で構成されていた契丹 迭刺部で、契丹の大英雄 耶律阿保機が生まれた。西暦901年、夷離菫(軍司令官)に昇った耶律阿保機は、西暦906年ついに待望の可汗に選出され、国民は彼を国父すなわち韓国語で父を意味するアボジ(中国の発音で阿保機はアボジ)と呼んだ。契丹伝統の3年交代制を解除し、契丹の諸部を完全に統一したアボジは、ついに西暦916年、皇帝位に昇り、大高句麗征伐に尽力した。その一環として皇叔ハルチョと彼の二人の息子が大高句麗に偽りの亡命をし、皇位を狙う大高句麗の情報部長 大素賢と密約を結んだあと帰ってきた。
大氏高句麗帝国の最後
* 西暦925年12月アボジ皇帝は全国総動員令を下し、大高句麗遠征の道に上がった。契丹軍は大素賢の案内で高句麗の要塞を巧妙に迂回して、電光石火のごとく大高句麗の都城である忽汗城を攻略、大高句麗を滅ぼして東丹国を建てた。しかし、大高句麗の各地方軍たちが起兵し始めたから、本格的な戦争はこれから始まるわけだった。
* 激務に苦しめられたアボジ皇帝が死ぬと、太子であり東丹国の王である人皇王と契丹の軍指揮権を握っていた第二皇子 堯骨との間で熾烈な皇位争奪戦が起こった。この時、人皇王は大高句麗復活軍の攻撃目標が忽汗城であることに気づき、遼陽に遷都するとともに忽汗城の全てのものを燃やしてしまった。
★またも都合の悪い資料を始末した
王氏高句麗の天下統一
* 西暦918年、弓裔を追い出して王位に昇った王健は、豪族たちとの政略結婚によって国力をまとめていき、また大高句麗が亡びるとともに亡命してきた遺民を受け入れ、国力を押し固めていった。この時、天下統一を目前に控えていた後百済の甄萱は、王子 神剣などに幽閉にされていたが脱出、王健に身を寄せた。新羅王 金傅 (訳注:敬順王) は千年の社稷(くに)を王健に託した。王健は神剣軍を殲滅し、963年ついに朝鮮半島を統一した。
★弓裔は自ら弥勒菩薩と名乗ったアホ。王健は知らないが名前からすると中国人っぽい
大金帝国
* 始祖キム・ハンボ (韓国のトンデモサイトによると、完顔阿骨打の先祖で高句麗人らしい) から始まった金国は、王氏高句麗および大遼帝国(契丹)と対立しながら成長した。 西暦1115年の正月、金阿骨打(キム・アグタ)は皇位に昇り、国名を大金帝国とした。大金帝国が大遼帝国との争いに勝ち、朝鮮半島は卞朝鮮系から再び辰朝鮮系へ移った。
(第5巻)
朝鮮海軍と大提督 李舜臣
* 強力だった東夷の帝国、金国は1234年モンゴル(元)の太宗に膝を屈してしまった。
★モンゴルと南宋の連合軍が、金を滅ぼした。
*高麗はモンゴルの侵入に対抗し、江華島に遷都して長期戦に突入したが、武臣政権が崩れて脆弱な世襲王の親政体制に突入することで、結局、開京に都を戻した。この時、三別抄を率いていた裴仲孫は還都に反対し、王族 承化侯温を新王として擁立、反蒙政権を樹立した。
★1170年~1270年の高麗は王は飾りで実権は軍部が持っていた
麗蒙連合軍の日本遠征
* 麗蒙連合軍は1274年と1281年、2度にわたって日本遠征を断行した。モンゴルの要請に高麗は喜んで参加した。高麗としては当時高麗海岸をひどく荒していた対馬島および壱岐島などの倭寇討伐という当面の課題があったからだ。2度にわたる蒙古の日本遠征は、日本一帯に吹き荒れた台風によって、共に失敗に帰した。しかし、高麗は当初の倭寇討伐という所期の目的を達成して改善できた。
★倭寇は元寇以降に起こったことであり、元寇の報復説もある。『高麗史』によれば1350(庚寅)年2月「倭寇の侵すは此より始まる」との記述がある。いずれにしても嘘八百である。
崔茂宣
* 2度にわたる海賊掃討戦で一時停滞していた倭寇たちが再び高麗海岸に群がり集まり始めた。1334年、鎌倉幕府が滅びて日本皇室が南北に分かれて内戦に突入することで民は極度に疲弊し、よって彼らが再び盗賊の群れになったのである。
★疲弊した民が盗賊になったとするには無理がある
★ むしろ、国内政治が安定しない朝鮮半島の人々が盗賊になったと思われる。
火薬と火砲の発明
* 崔茂宣は倭寇を海上で討伐するのが最善だと考え、火薬と火砲の発明に尽力して、倭寇討伐に輝かしい貢献を立てた。1389年、朴威は戦船百余隻を率い、倭寇の巣窟 対馬島を討伐した。この作戦は高麗の最後の海軍作戦だった。高麗は3年後にあった李成桂の易姓革命で滅びてしまった。
★火薬は中国で唐時代に発明された、1300年には既に銃を使った戦争があった。1389年に対馬を占領された事実はない
* モンゴルの支配下にあった漢族たちが蒙古を追い出して明を建国した後、続いて西方に勢力を拡張してきた。これは失地回復という高麗の政策と正面から衝突することになったし、あげくの果てに高麗は1388年、遼東征伐を断行することになった。4大不可論 (訳注:明と戦うべきではない4つの理由) を掲げて最後まで遼東征伐の撤回を主張していた中で、やむなく出征した李成桂は結局、威化島に至って軍の撤退を断行してしまった。
★原因は明が元の領土を要求したことによる
* 武力で政権を奪った李成桂は文臣を優待し、その結果、朝鮮の軍事力は次第に無力化していった。こうした状況でも崔茂宣の息子 崔海山は、父の火薬製造法をもっと改良・発展させ、後日李舜臣艦隊を通じてその威力を証明することになる。
大提督 李舜臣
* 李氏朝鮮はしばらく天下太平を迎え、党派の争いばかりにふけっていた。一方、日本は1460年、領主間の血戦が始まり、以後約120年間、弱肉強食の戦国時代が続いた。
★1467年~1477年、応仁の乱。1600年、関ヶ原の戦い
* 1536年、貧しい農民の息子として生まれた豊臣秀吉は、当時最強者だった織田信長の下で成長し、ついに全国を統一して目を外に向けた。
★秀吉が豊臣を名乗ったのは1586年9月9日
* 朝鮮通信使として日本に行ってきた正使 黄允吉(西人)と副使 金誠一(東人)の陳述が行き違って言い争いをしている中で、朝鮮は結局1592年、壬辰倭乱(文祿の役)を迎えることになった。
* 日本陸軍が連戦連勝して北進を続けている時、李舜臣将軍と李億祺将軍が協力して日本海軍を破り(これは奇襲であった)、補給路を遮断することで日本軍撃退に大きな役割を果たした。しかし、元均の謀略で獄につながれたあと、一兵卒として従軍したが、1597年、三道水軍統制使になり、鳴梁大捷の勝利をもたらした。
★文禄・慶長の役は日本軍が釜山に上陸後約1ヶ月で首都京城陥落。以後、朝鮮半島をほぼ制圧したが、休戦協定を調印した事と秀吉が死去したことで、撤兵により終了した。1598年。
日本と韓国との戦力および戦術に差がありすぎたため、日本優位になったことによる。
大朝鮮帝国史はたかだか漫画ですから何を書こうと自由ですが、妄言の連続になっている。日本史・世界史・世界地理など無視した非科学的な代物である。中盤以降は「どうでもいいや」という気になってきたので、間違っているかも知れない。しかし、「大朝鮮帝国史」と「韓国近代史」は同じぐらい面白いという人もいる。大統領の末路は、謀略・クーデター・冤罪・暗殺・裏切り・亡命などのオンパレードになる。興味がある人は調べて見よう。
さて「大朝鮮帝国史」はデタラメ・嘘八百の内容だが、これを韓国の学校で教えているらしいです。韓国というのはこういう国なのでしょうかね?
幻覚と妄想が気になる人は、以下の薬をどうぞ。
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